SDGs未来都市 野々市
富樫氏は、室町時代に加賀国を支配した守護大名。
それ以前にも木曽義仲と対戦したり、源義経の勧進帳など、歴史の舞台にたびたび登場しています。
初代守護の富樫高家が政治の中心「守護所」を置いた富樫館跡や、富樫氏が建てたといわれる布市神社、喜多家住宅など野々市の名所を巡り、野々市市に富樫氏の巨大な地上絵を描きます。
地域の歴史文化に触れ、野々市市の良いところを再発見しましょう。
「諸国漫遊 地上絵巻 富樫氏GPSアート」(いしかわ百万石文化祭応援事業)
令和5年6月25日(日) 8:00~12:00
参加人数:25名
主催 ほくりくGPSアート部
後援 野々市市
申し込み:モシコム
開催報告
富樫橋(スタート)
さぁ、富樫氏めぐりの旅に出発しましょう。
富樫像
4代目藤原(富樫)忠頼が加賀国司の勅命を受けたとされる987年から1000年の記念として、1988年(昭和63)に富樫氏の銅像(7代目富樫家国)と富樫氏の歴史と伝承を顕 彰した石碑が建てられました。
平安時代 冨樫氏の起こり(藤原家の末裔)
延喜15年(915) 藤原利仁 (藤原鎌足から8代) 鎮守府将軍に任せられ、北国大守の時、次男次郎叙用を加賀国、 土無加之(トムカシ) (冨樫) の郷に派遣し、 加賀 の領主としました。 冨樫の姓もこれより起こったとされています。
永延元年(987) 第66代一条天皇の勅命により、冨樫忠頼が加賀国司として着任、永住の勅許を得ました。 以来、京都と富樫郷に屋敷をかまえて仕事を司っていました。そのため富樫郷近くには、山科・伏見・高尾といった京都にちなんだ地名が見られるのです。忠頼(利仁より4代)は、特に名君のほまれ高い人で、「金澤」 命名に関係ある伝説 『芋掘り藤五郎』は、実は忠頼ではないかとも言われています。
冨樫家国 (7代)は、 康平6年(1063) に加賀の国府を、手取川の河川や海など水上交通と北国街道の陸上交通の要に位置してる野々市 (当時は「布市」)に移し、館を建てこの館を守護所にしました。このため中世の野々市は加賀国の政治・経済・ 文化の中心として栄えました。
農事社跡
1876年(明治9)、旧加賀藩士の杉江秀直が農事社を創設、欧米の農法を導入して日本で最初の耕地整理を行い、全国に広まりました。
我が国の農地近代化の第1歩は野々市から始まったといえます。
照台寺
16世紀末、本願寺の顕尊(織田信長と一大抗争を広げた顕如の弟)が照台寺に送った「虎猫の御書」が有名です。
本願寺で一匹のネズミが暴れまくり、本尊を壊しそうなくらいの有様だったとか。このネズミを退治するために照台寺にいた虎毛の老猫が本願寺へ。三日三晩の大格闘の末、双方亡くなってしまったとのこと。
照台寺への感謝状というわけですね。
布市神社
布市神社は、富樫氏が野々市に「富樫の館」を構えた際、敷地内に造営したとされる神社で、創建は寛弘6年(1009年)・富樫氏の守護神を祀っています。
ちなみに野々市の古名は布市(ぬのいち)。
野々市(ののいち)の名はここからきているんですね~。
水毛生家住宅
水毛生家は富樫氏に仕え、1587年(天正15)から野々市に住んでいました。
表構が切妻妻入の農家型、内部の間取は町家型となっており、農村と町場の中間的性格をもつ野々市型町家の一つと考えられます。
ふがく堂
野々市にあるふがく堂は、冨樫氏の後裔とされる樫田冨嶽堂が先祖の威徳を讃え、勧進帳の巻物をかたどり「もなか勧進帳」を謹製しました。野々市の銘菓として、また縁起の良い「難関突破の勧進帳」として親しまれています。
ちなみに屋号は、後述の通り、富樫氏消滅後、鶴来の鞍ヶ嶽に姓を伏せ暮らした事から獄の1字を取って、日本一の富士山にあやかり 「冨嶽堂」 としたそうです。
鎌倉時代 倶利伽羅の源平合戦
冨樫泰家 (12代)は寿永2年(1183) 「源平の争い」で、 平氏討伐に応じて平維盛率いる大軍と加賀 越中国境の倶利伽羅の合戦にて対陣。 燃え盛る松明を牛の角に結びつけ、敵陣に向けて放ち、夜襲をかけます。 この大胆な戦略が功を奏して大勝、寿永3年(1184) 鎌倉幕府の加賀国の守護に任ぜられ、左衛門尉の地位安泰を命ぜられました。
文治3年(1187) 冨樫左衛門泰家は、兄・頼朝から追われ、山伏に扮した源義経一行を追及し、義経本人であることを確信しつつ、武士の情と武蔵坊弁慶の読み上げる「勧進帳」に感心し、義経一行を通過させました。 能楽 「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」で後世に伝えられています。この事により泰家は頼朝の怒りを買い、守護の職を剥奪されました。しかし、康家は仁・ 情のある武将として名高く、郷土の民謡 「野々市じょんがら」 も冨樫氏の善政を称えて今にうたいつがれています。
野々市市郷土資料館(旧魚住家住宅)
市指定文化財「旧魚住家住宅」は、江戸時代末期の農村の商家で、建物内部を郷土資料館として公開しています。
富樫氏の歴史や明治~昭和の暮らしの様子など、民俗資料が多数展示されております。
富樫館跡
足利尊氏に従い武勲を上げた富樫高家が1335年(建武2年)加賀国の守護に任じられ守護所が置かれました。
1570年(元亀元)富樫晴貞が織田信長に味方したため、一揆勢に攻められ館は廃絶したと言われています。
北國街道
北陸道(北国街道)は北陸地方を縦走する主要な街道で、野々市は加賀国内における流通経済の中心として活況を呈しておりました。
江戸時代以降は城下町金沢を目前に控えた北国街道の宿場町となりました。
1876年(明治9)、旧加賀藩士の杉江秀直が農事社を創設、欧米の農法を導入して日本で最初の耕地整理を行い、全国に広まりました。
我が国の農地近代化の第1歩は野々市から始まったといえます。
旧藤村家住宅(田村家住宅)
明治・大正期の実業家である藤村理平の旧宅で国登録有形文化財です。
1878年(明治11)、明治天皇北陸巡行の際、藤村家が休憩所となっており、表門、離れや後ろの蔵などに当時の遺構が残されています。
富樫館跡 石碑
1967年(昭和42)に富樫卿奉賛会と金沢工業大学が館の存在を広く知らせるために石碑を建立しました。
「富樫氏累代の居館したところ富樫城とも言い九艘川と新兵衛川を外壕とした區域である」と刻まれています。
室町時代 加賀の一向一揆
建武2年(1335) 冨樫高家 (17代/ 守護初代) は足利尊氏につき、 戦いで手柄をたて、室町幕府から加賀国守護職に任じられました。 加賀国の守護職につきますが、 加賀守護職を望む有力者が多くその地位は不安定でした。
文明18年 (1487) 冨樫政親 (守護1214代) は、将軍の足利義尚による六角氏攻略戦に従軍するため、 近江国へ出陣。 一向宗本願寺派は政親の不在を狙い武装蜂起。 政親は、急遽帰国するが和睦提案を拒絶します。長享2年(1488) 冨樫政親は1万の兵と共に高尾城に篭城するが、 20万という大規模な一向一揆軍に包囲されて自害に追い込まれました。 実は、その敵の総大将は対立する大叔父の富樫泰高でした。この時、奥方と子供は、山を越え越中砺波へ逃れたと聞いています。今でも砺波地方には冨樫姓が非常に多いそうです
加賀一向一揆に担がれた大叔父の冨樫泰高は守護職に就きましたが、それは名目だけの傀儡でした。その後、蓮如の子供である蓮悟、蓮綱、蓮誓らが、直接、加賀国 を支配することとなります。 ここに約100年近くに渡り「百姓ノ持タル国」と呼ばれる一向 宗本願寺派の王国が誕生しました。
冨樫氏は名目だけとはいいながらも加賀守護として続いたが、冨樫晴貞 (守護17代) が織田信長と組んだため、一向一揆に討ち取られました。 後を継いだ泰俊 (守護18代) 天正2年(1574) に討ち死に。藤原利仁 (藤原鎌足から8代) の次男、叙用が加賀の領主と なった頃から約660年間続いた冨樫氏は消滅しました。
白山神社
平安時代、一条天皇の御代にあたる永延年間(987-989)、4代目藤原(富樫)忠頼が創建と伝えられています。
境内には村の若者たちが持ち上げては力自慢を競い合った「盤持ち石」があります。
松金電鉄線路跡
1904年(明治37)、松任から野々市を経由し、金沢市有松までの旧北国街道沿いに客車を馬引きする松金馬車鉄道会社が開業。1916年(大正5)に電化されました。
鉄道の名残を垣間見ることができます。
つばきのモニュメント
バス停「野々市中央」の近くには、大きな椿のモニュメントがあります。
野々市市は市の花と木の両方が「椿」であり、市の名を関した椿の品種「野々市」の生まれ故郷でもあります。
ゴール
ゴルゴルゴール!!!
富樫氏巡りはいかがでしたでしょうか?
コースはこちらからダウンロードできます。
ぜひ地元の良いところを発見してみてはいかがでしょう。